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2012年8月17日 (金)

ひびき

被災された方の顔が 目の前に浮かび

 思わず 涙が こぼれてしまいました

そんな

 取材記事を 読みました。

 尚、掲載の許可をいただいておりませんので 苦情等が寄せられた場合には削除いたします。 また、実名は全て仮名とさせていただきます。

 

 

 

人の痛みに寄り添う

 

 愛する人の死とは? そして、残された者が生き続ける意味とは何だろうか?

 人の心とは不思議なものだ。時の移ろいに漫然と身をゆだねていると、日々の幸せや傍らにいる人のぬくもりを忘れがちだ。

 不条理なかたちで、掛け替えのない人や家を失うことは、耐え難い痛みを伴いながら、人をいや応なしにこうした問い掛けと対峙させる。

 家族のとりとめもない会話。おふくろの味やオヤジのだじゃれ。生意気盛りの子ども。物忘れがひどくなった祖父母の口癖・・・・・。とりとめのない日常が、喪失を経て悲しみとともに愛おしく思えるのはなぜだろうか?

 そんな問いを我々に突きつけたのが、昨年3月の東日本大震災だった。少年時代を岩手県の三陸地方で暮らした私は、震災直後から現地取材を続けながらそんな思いに駆られている。

 岩手県大船渡市の山田優子さん(49)と真由美さん(27)母娘との出会いは、忘れられない思い出だ。震災前、ダウン症で全盲の真由美さんは引きこもりを続けながら、母と祖父母と叔母と一緒に海のそばの家で暮らしていた。

 3月11日、避難に手間取って一足遅れて玄関先に顔を出した祖母の芳江さん(享年74)は、襲いかかる津波を眼前にしてエンジンをかけながら車の中で待つ祖父と叔母と真由美さんに「オラはいいがら 行げ! 生ぎろよ!と絶叫。車が急発進したのを見届けたかのように、「万歳」を繰り返して波に飲み込まれた。

 当時、勤務先の高台の保育園にいた優子さんは、震災3日後に真由美さんら3人と再会。芳江さんの最期を聞いて以来、「なぜ、お母さんを置き去りにしたのか」という憤りと、「障害のある娘が足手まといになったのでは」という自責の念で揺れ、幾度も真由美さんを連れて後を追おうと考えた。「保育園に行くとあの日を思い出して、いたたまれない」と仕事も辞め、昨夏からは真由美さんと二人で仮設住宅での暮らしを始めたが、毎日のように遺影の前で泣き崩れ、過呼吸の発作を繰り返した。

 優子さんを支えたのは、家族を救おうと一命を投げ出した芳江さんが遺した「生ぎろ」という言葉と、娘の真由美さんだった。真由美さんは一度だけ「おばあちゃんはお空に行った」と口にした以外は、涙と「おばあちゃん」という言葉を封印した。引きこもりを止めて障害者通所施設に通い始め、仲間と居場所を見つけた。

 「もし真由美がいなかったら、心はとっくに壊れていたと思います。私が泣いてばかりいるものだから、それ以上に悲しい思いをさせないようにと、彼女なりに気を遣ってくれたのだと思います」。後に優子さんが語った我が娘への感謝の思いだ。震災から1年を経た今年の3月11日には、母子は「おばあちゃん」の面影を浮かべながら、海に花束を捧げて「残った家族で生きていく」と誓っている。

 「心が折れそうになっているときに、『がんばれ』と言われると何だかいたたまれなくなる」。これは夫を亡くした40代の女性の言葉。つい「オレも後を追いたい」とこぼしたら、親戚や家族に『バカなことを言うな』と頭ごなしにしかられた。やつらにオレの悲しみは分からない」。妻子を亡くして一人ぼっちになった30代の男性は、寂しげに頭を振った。

 真由美さんは自ら「大好きなおばあちゃん」を失った悲しみを抱えながら、母親の悲しみに寄り添っている。とって付けたような言葉や励ましはいらない。傍らに寄り添い、相手の悲しみを想いやる心があればいい・・・・・・私は真由美さんからそう教わったように思う。       

 

                               毎日新聞記者 萩尾信也

『被災者』と 十把一絡げで 括ることは出来ません

 いろいろな 被災の形があるでしょう

いろいろな 不幸な 理不尽な状況が 今も 続いているのでしょう

  心の 復興なんて ありえないんでしょうね

 傷だらけになって 皮膚を剥がされ 赤々となった むき出しの心に

せめて タンポポの 綿毛のように 柔らかく 寄り添うものを・・・

 ごめんなさい 私は 涙することしかできません 実に 無力です

心を 馳せることしかできません

 改めて 亡くなった方々に ご冥福をお祈りいたします

また 被災された方々に お見舞いを 申し上げます

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コメント

そうですよね。心の復興は難しいと思います。津波にのまれ生きた方は、一生その時の恐怖は忘れられず、今でも続いているようです。
友人の旦那さんの両親が犠牲になり、ショックを受けて生活していると言っていました。
生きたとしても、希望もなく思いつめ「死ぬ~」と叫びながら自殺する人もいるようです。

まだまだですね。時間はかかると思いますけど・・・。

今朝早くに携帯でこの記事を読んで仕事場にきて一番にコメントを書いています。
私は震災がきっかけでブログを始め、ネットを通じてMさんと知り合いになり、Mさんのブログを通じてたくさんの人と交流がもてるようになった。今まで井の中の蛙だった私がたくさんのことを知ることができたようにおもう。
先日、私のブログに広場を退会したけどブログだけは読んでくれている女の子からコメントが入った。彼女がメアドを入れておきますって書いてあったからメールしてみた。彼女は広場にいるときは元気一杯で顔文字を使ってたけど、本当はそうしながら目に涙をいっぱいためていたって返事が来た。私はすぐにMさんのことを思い出した。彼女も無理してた、いいえ、まだ無理してるんじゃないかって思った。
私の力はまだちっぽけで発信力もないけれど、自分にできることはしようと思った。それは去年の3月11日から変わっていない。また変えてはいけないような気がする。
私は被災された方ではMさんしか知らないけれど、自分にできることをすることが犠牲になった多くの方のご冥福をお祈りすることになるような気がして、今日もペンを走らせている。今日のカブさんの記事を読んで改めてそう思った。では^^

普段 平平凡凡と過ごしている私でも ちょっと落ち込んだ時
どうして生きているんだろう…という 疑問を もつことがあります。
災難に巻き込まれた方々の思いは 想像以上のものが あると思います。
まだまだ あの日のまま 思いが止まったままの方も 沢山おられるでしょうね。
命授かった以上、生きなければならないのが前提…
少しでも 生き易い方に 何とか心を もっていって欲しいです。

この事をテレビの報道で知っていました。
当時 たくさんの方の「3:11 その日」の記事が新聞に載り テレビで語られましたね・・・

オラはいいがら 行げ! 生ぎろよ!」と絶叫。車が急発進したのを見届けたかのように、「万歳」を繰り返して波に飲み込まれた。

このおばあちゃんの尊さに手を合わせて魂の成仏を祈りました。
その後の娘さんと孫の真由美ちゃんの心情を読み、涙が止まりません。
みんな 精いっぱい苦悩し 自分で立ち上がっていくのだと感涙しました。
3月11日から どれだけ長い月日が経とうとも 未曾有の天災人災を
1000年経っても 決して忘れてはいけないのが 今の日本人です。
おごり高ぶった 神をも畏れぬ日本人に なぜなったのか?
100年ぐらい前から傲慢なヒトデナシになった日本人であることを恥じています。

イックさん 風みどりさん ミーシャさん ひかりちゃん コメント ありがとう
 奥尻島の津波で 被災してから 10年後に 現地に 行ったことがあります
建物は すっかり 復興してました
 でも フェリー乗り場で 飲食店を経営されている お爺さんは
ポツリと「何も 直ってねぇ」 と
 言葉を 失いました・・・
 

こんばんは。
私も、去年 悲しい思いをしました。
母子家庭で 障害がある 息子と一緒にそう身自殺ですよ。
親類なので 残された人の苦しみが解ります。
残された人は、悔いが残り いまだに 心に傷になりますからね。
私と同じ年なんですよ。
亡くなった 母親が。

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