私たちは、怒らなければいけない 5
支援の質と基本的姿勢の欠如
裁判では、亡くなった被害者男性(19歳)の母親も証言に立っています。
まず、その言葉をようやく抜粋します(以下、引用文中カッコ内は編集部注)。
息子が19歳で亡くなって1年。気持ちが整理できないまま、
暗い心の闇と戦っている。
23歳で生んだ、待望の男児だった。優しくてシャイで、友達とおもちゃの
取り合いになるとすぐに手を離して泣き出した。
気持ちが伝わらなかったり、不快なことがあると大声で泣き、
家の階段を繰り返し上り下りすることもあった。
レンジや換気扇の音がダメになったり、テーブルで座って食事できずに
家族で立って食べるなどした時期もあった。
ラジコンやヘリコプターが好きで、主人と一緒にラジコンを飛ばしたり、
雑誌を見たりしていた。畑仕事も家族で一緒にした。
ホウレンソウのおひたしが大好物だった。
成長は遅かったが、そのぶん何かができるようになったときの喜びはとても
大きかった。
小学校4年生の時、家庭の事情もあり、「プロがしっかりとみてくれる」と
信じて養育園にお願いした。それなのに、守ってくれるはずのところで殺された。
「亡くなったんじゃない」
この裁判の中で「自傷や他害がひどい」と繰り返し強調され、本当につらかった。
息子は、人を殴ったり咬んだりする子ではなかった。
3歳のころからトイレができ、箸も持てた。転ぶことなく自転車を乗り回していた。
養育園に入るまで、普通の小学校の特別支援学級に通っていた。
入所当初は軽度の方がいる4寮で、のちに2寮に移動。2寮でも手がかからないと
言われていた。
高校生の頃からおかしくなってきた。失禁する、握り箸になる、
自分の顔を叩く、大声を出すなど。普通に歩いていたのに、
高2の頃から急に背中を反らせて歩くようになった。
いま思うと、暴行されて痛かったからではないかと思う。
家に帰ると異食するようになった。
アルバムを出してきて、「お母さん」「おばあちゃん」「ヘリコプター」と
指さして、見つめていた。
いま思えば、落ち着くものを求めていたのかもしれない。
当時は養育園や職員を信じていたが、こんなことになって毎日のように
多くの職員から暴行を受けていたせいだと分かった。
「お母さん、助けて」と声に出したかったはず。
気づいてあげられなかったことが本当に悔しい。
この言葉の通り、証言に立った職員や関係者は被害者男性について
「毎日暴れている」「非常に手がかかる」「他の利用者と比べて(力が)相当に
強い、本気で抑えないといけない」としか語りませんでした。
「被害者が自傷他害をするときにどう対応したのか」という問いには、
職員や施設の診療室医師は「制止する」「臨時に投薬する」、
施設長は「複数対応や投薬、具体的な方法にはこだわっていない」と
答えています。被害者男性が、何が好きで、どんな時に落ち着いていて、
何をしている時が楽しそうだったのか。これまでどんな人生を送ってきて、
将来的にどんな生活をしていきたいのか。彼の人となりについて誰一人、
触れることはありませんでした。被害者がラジコンが好きであったと知っていた
職員や関係者はいたのでしょうか。
続)
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