ユダヤ教 7 亡国の民 ユダヤ人
モーセから 跡を任された ヨシュアは
ついに 約束の地 カナンを 手に入れます
以降の ユダヤ人は 繁栄-分裂-復興-離散 など 数奇な運命を 辿ることになります
前11世紀ごろ イスラエル王国を建国します
イスラエル王国は 第2代の ダヴィデ王 続く ソロモン王のころに 最盛期を迎え
前10世紀に エルサレムを占領して 神殿を築きますしかし
ソロモン王の死後 王国は 北のイスラエル王国
エルサレム神殿を擁する 南のユダ王国に分裂します
イスラエル王国は アッシリアに滅ぼされ
ユダ王国も 新バビロニアのネブカドネザル2世によって 滅ぼされてしまいます
その際 エルサレム神殿は 破壊され ユダヤ人の多く 貴族や聖職者
中産階級の市民ら 数千人が バビロニアに連行されるのです(バビロン捕囚)
その約50年後 バビロニアが 新興勢力の アケメネス朝ペルシアに滅ぼされると
ユダヤ人は 帰国が許されるのです
エルサレム神殿は エズラや ネヘミアといった 指導者によって 再建されます
彼らは モーセの十戒などの 律法(トーラー)を編纂を進め それを 遵守することで
ユダヤ人の間で 失われかけていた 神に対する 信仰を復活させます
組織教団としての ユダヤ教は このころに 成立したといわれています
その後の ユダヤ人は エジプトや シリアといった 周辺国の支配を受けながらも
律法に基づく 生活を守っていた
前2世紀には ユダヤ人による 独立王朝 ハスモン朝が成立するが
ローマに滅ぼされてしまいます
紀元前後には ローマの直轄領となるのです
イエスの 処刑は この ローマ治下で起こった出来事です
その後 66年に ローマに対する反乱を起こします(第一次ユダヤ戦争)
しかし 70年に エルサレム神殿が 破壊され
以後 長きにわたる ユダヤ人の離散が始まるのです
エルサレム神殿は 第一次ユダヤ戦争で 徹底的に破壊された
その後の神殿域の跡地に イスラム教勢力の支配下で「岩のドーム」が建立された 他
11世紀には 十字軍によって キリスト教の聖ヤコブ教会や
テンプル騎士団の宿営地が建てられた
イスラム勢力の エルサレム奪回後は
オスマン帝国などの治下で 岩のドームが修復された
今日 往時のエルサレム神殿が 偲ぶ跡としては
西壁部分の「嘆きの壁」が残るのみである
ガリラヤでの 伝道活動で 多くの信者を獲得した イエスに対し
既存のユダヤ教勢力は 強い反感と 危機感をもつようになった
そこで エルサレムに入った イエスを捕らえ 最高法院において
とくしんざい
瀆神罪による 死刑を宣告 ローマ総督ピラトに訴え出て イエスを磔台に送ったのである
このため ユダヤ人は キリスト教徒から イエスを処刑した民族といわれるのである
と あるが
異説もある
イエスは ローマ支配への 反乱を企て エルサレム宮殿を奪い返そうとした
ユダヤ人反乱者のリーダーだった というのだ
現代に広まっている イエス像は 宣教師パウロが 作り上げたものだというのである
本当のイエスは ユダヤの国民的英雄で ユダヤ民族に 一度砂漠に逃亡するよう
促してから 自分をユダヤの王と宣言するつもりだったという
イエスは 何も書いたものを残していないので
新約聖書だけが イエス像の手がかりを与えてくれるのだが
その作者も パウロも 一度も イエスにあったことはないのです
「ペテロの手紙」というのが「新約聖書」に入っているが
しとぎょうでん
これは 「使徒行伝」の使徒 シモン・ペテロとは別人だし
イエスが十字架にかけられたとき 側にいたと称する ヨハネも
「ヨハネ伝」の作者 ヨハネとは別人です
「新約聖書」の中で 一番古い「マルコ伝」も
じつは 西暦70年になって 書かれたものだという
キリストの教えが ローマの国教となったのは イエスの処刑から 300年も経ってからだ
もともと ユダヤ人の中から出てきたイエスの教えを ローマ帝国に広め
ついに ローマの国教にするのだから 様々な苦労があったことだろう
そこで イエスのイメージを ユダヤから引き離すために
ローマに滅ぼされてしまいます
紀元前後には ローマの直轄領となるのです
イエスの 処刑は この ローマ治下で起こった出来事です
その後 66年に ローマに対する反乱を起こします(第一次ユダヤ戦争)
しかし 70年に エルサレム神殿が 破壊され
以後 長きにわたる ユダヤ人の離散が始まるのです
エルサレム神殿は 第一次ユダヤ戦争で 徹底的に破壊された
その後の神殿域の跡地に イスラム教勢力の支配下で「岩のドーム」が建立された 他
11世紀には 十字軍によって キリスト教の聖ヤコブ教会や
テンプル騎士団の宿営地が建てられた
イスラム勢力の エルサレム奪回後は
オスマン帝国などの治下で 岩のドームが修復された
今日 往時のエルサレム神殿が 偲ぶ跡としては
西壁部分の「嘆きの壁」が残るのみである
ガリラヤでの 伝道活動で 多くの信者を獲得した イエスに対し
既存のユダヤ教勢力は 強い反感と 危機感をもつようになった
そこで エルサレムに入った イエスを捕らえ 最高法院において
とくしんざい
瀆神罪による 死刑を宣告 ローマ総督ピラトに訴え出て イエスを磔台に送ったのである
このため ユダヤ人は キリスト教徒から イエスを処刑した民族といわれるのである
と あるが
異説もある
イエスは ローマ支配への 反乱を企て エルサレム宮殿を奪い返そうとした
ユダヤ人反乱者のリーダーだった というのだ
現代に広まっている イエス像は 宣教師パウロが 作り上げたものだというのである
本当のイエスは ユダヤの国民的英雄で ユダヤ民族に 一度砂漠に逃亡するよう
促してから 自分をユダヤの王と宣言するつもりだったという
イエスは 何も書いたものを残していないので
新約聖書だけが イエス像の手がかりを与えてくれるのだが
その作者も パウロも 一度も イエスにあったことはないのです
「ペテロの手紙」というのが「新約聖書」に入っているが
しとぎょうでん
これは 「使徒行伝」の使徒 シモン・ペテロとは別人だし
イエスが十字架にかけられたとき 側にいたと称する ヨハネも
「ヨハネ伝」の作者 ヨハネとは別人です
「新約聖書」の中で 一番古い「マルコ伝」も
じつは 西暦70年になって 書かれたものだという
キリストの教えが ローマの国教となったのは イエスの処刑から 300年も経ってからだ
もともと ユダヤ人の中から出てきたイエスの教えを ローマ帝国に広め
ついに ローマの国教にするのだから 様々な苦労があったことだろう
そこで イエスのイメージを ユダヤから引き離すために
その死を 殉教を ユダヤ人のせいにする必要があった
ところが イエスは 十字架刑という ローマ式の処刑を受けている
ユダヤ人ではなく ローマ人に殺されたことは ごまかしようがない
それに 古代では 磔は 重罪人に与えられる 最も屈辱的な刑である
救世主たるイエスが この恥ずべき刑に処せられたことも
キリスト教を広めようとする者にとっては イメージが悪い
そこで パウロは 苦肉の策として 新解釈を生み出す
イエスが この屈辱的な死を 自ら引き受けることで 人間たちの罪を その身に背負った
というのだ
この論理で 人々を納得させ 布教活動を進めたのではないか
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コメント
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結局、この壮大なイエスをめぐる
Fiction(Non-Fiction?)で得したのは・・・
ローマ人か?
やっぱりローマ教皇が物語りの裏にひそむドンなのか??
投稿: ちめの | 2015年7月31日 (金) 13時25分
無関係ではないと思うけどね ・・・さて どう まとめようか? ( ̄○ ̄;)!
投稿: カブ | 2015年7月31日 (金) 19時32分
投稿: 音姫 | 2015年7月31日 (金) 21時41分