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2015年9月17日 (木)

イスラム教 9 イスラム帝国

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632年にムハンンマドが没すると イスラム共同体(ウンマ)は動揺した

そこで ウンマはムハンマドの後継者(カリフ)として アブー・バクルを 初代カリフとした

 アブー・バクルは ウンマを束ね メディナを拠点に 周辺地域への征服活動を再開

その後 ウンマの合議などによって選ばれた4代までのカリフを 正統カリフとよぶ

この時代のウンマは ササン朝ペルシアを 滅ぼしたほか

 ビザンツ(東ローマ)帝国から シリアやエジプトを奪うなど 支配地域を拡大していった

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636年 アラブ軍はビザンツ帝国に侵攻し シリアを制圧した

640年には エジプトを奪取するなど 西に向かって勢力を伸ばしていった

一方 東にも向かい 651年には ササン朝ペルシアを滅亡させた

こうして イスラム教徒が支配する勢力は拡大し 一種の帝国となってきたため

「イスラム帝国」と よぶことがあるが 中国の秦以降の帝国やローマ帝国のように

 自分たちで そう名乗ったわけではなく 

  歴史学者や政治学者が 便宜的によんでいるのである

ムハンマドの後継者は「カリフ」という称号でよばれる

初代カリフは ムハンマドの妻 アーイシャの父

二代目は 妻ハフサの父

三代目は 娘の夫 という具合に ムハンマドに縁のある者から選ばれた

だが 四代目をめぐって 内部分裂を起こしてしまう

661年 ムハンマドのいとこで 女婿にあたる アリーが暗殺される


シーアとはアラビア語で「党派」を意味する言葉である

 シーア派は もともと「シーア・アリー(アリーの党派)」といわれ

ムハンマドのいとこであり ファーティマをめとって ムハンマドの義理の息子にもなった

 アリーと その子孫だけであると主張する一派であった

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シーア・アリーは ウマイヤ家のムアーウィヤを支持する「シーア・ムアーウィヤ」と

 対立したが その後 アリーは ムアーウィヤとの調停に臨んだ

しかし そんなアリーの融和的な態度を批判して 分派したのが 強硬姿勢を貫く

「ハワーリジュ派」(ハーリージー派)であった

ハワーリジュ派は シーア・アリー シーア・ムアーウィヤ双方を敵対視 ついには

 アリーを暗殺するのである

これにより ムアーウィヤがカリフに就任 ウマイヤ朝が成立するのである



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                                          分派図 略図
Photo_14                                          分派図 詳細

ウンマ内で大多数を占めていたのは ウンマの統一や 合意を重視し

 両党派の対立を 静観していた中立派の人たちであった

彼らは ウマイヤ朝成立によって シーア・ムアーウィヤを支持するようになり

 現在のスンナ派(スンニ派)の母体となった

  スンニとは「慣行」を意味し 宗教的なことは「預言者の慣行に従う」との考えを持つ

一方 シーア・アリーは ウマイヤ朝を認めず アリーを初代イマーム(指導者)とし

 彼の子孫が 代々イマームの権利をもつと考えるシーア派を形成

  その後 シーア派は アリーの子孫の誰をイマームとするかによって

   分派を繰り返したが 現在では シーア派の約90%を

    「十二イマーム派」が占めている

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コメント

あれ?
イスラムに戻った?
イスラム教の歴史って、キリスト教よりややこしいな。

つぶあんさん どうも~

 キリスト教も なかなか 面倒なんですよ ヽ(´▽`)/

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