春
春在枝頭已十分 (はるはしとうにあってすでにじゅうぶん) 解説 これは 終日尋春不見春 終日春を尋ねて春を見ず 杖藜踏破幾重雲 藜(あかざ)の杖をつき踏破す幾重の雲 帰来試把梅梢看 帰り来足りて試みに梅梢を把りて看れば 春在枝頭已十分 春は枝頭に在って已に十分 という、宋の載益(たいえき)の「春を探るの詩」の中の句です。 春はどこに来ているのだろうと、一日じゅう春を尋ねてみたが見えない。 あかざの杖をついてあちこちと歩き回り、疲れた足を引きずって帰ってきた。 ふと自分の家の梅の枝を手にとってみると、花がふくよかに香りを はなっていた。探していた春は自家にあったのだ、という意味です。 寸話 人は幸せを求め、大きな望みを抱くわけですが、ここにもあるように、 真の幸せというのは、ごく身近にあります。幸せというのは、自分の心以外の ところに、ゴロッと転がっているわけではありません。 ある禅僧に、如何なるかこれ苦、つまり、苦しみとはなにかと聞いたら、 幸せと答えています。それでは幸せとはどんなものですかと尋ねたら、 苦しみと、このように答えています。 苦しみと幸せというものは、裏と表なのです。何の裏と表かというと、 自らの心の裏と表にすぎません。 ですから、その幸せや苦しみのもとになっている心というものから、 幸せも出れば、苦しみも出るのです。 幸せというものを、自分の心の外側に求めるということは、如何にも愚かな ことではないか、放っておいても、春がくればおのずから枝々には花が咲いて、 自分の家の庭も春色はすでに十分になってきているではないか、 そういうことを意味していることばです。 人生を有意義に生きるには、 自己反省がまず第一ということを表わしています。 出典: 平田精耕著 「禅語辞典」 PHP はたして・・・ 春まで 生きる気力を 保てるだろうか(ノд・。)
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コメント
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休まず仕事するべし ( ^ω^ )
人生山あり谷あり、、、
土砂降りの雨もいつかは上がる、、、
振り向かず前を向いて歩いて行こう (*^m^)
投稿: 音姫 | 2018年1月15日 (月) 21時07分
なんか、弱気発言多し‼️
らしくないよ。
ところでお父さんは元気なの?
まずは生きよう!
それと、ついでに酒辞めてみる?
そしたらマツコさま、帰って来るよ
投稿: のらデジ | 2018年1月15日 (月) 21時20分