カテゴリー「宗教」の42件の投稿

2015年11月18日 (水)

イスラム教 15 インド・東南アジア

インドでは ムガル帝国の時代に イスラム化が進んだが

 ヒンデゥー教が 依然として強く 

  20世紀初頭の イスラム教徒は人口の20%ほどであった


18世紀ごろから イギリスによる植民地化が進められたインドでは

 19世紀末ごろから 独立の気運が芽生え始めた

しかし インド国内のイスラム教徒は マイノリティになることを恐れ

 やがて 「二民族理論」

        (ヒンドゥー教徒とイスラム教徒は 宗教だけでなく 社会・文化を異にする

         民族だとする理論)


  を唱えて 分離独立を志向するようになる


一方 商人らの活動で イスラム教が伝えられた 東南アジアでは

 13~17世紀ごろにかけて しだいにイスラム教が広まり

  現在のインドネシアでは 世界最多のイスラム教人口を擁する国となっている

ただし 東南アジアにおける イスラム教の信仰度は

 地域によっても 温度差があり 

  インドネシアのアチェ州などでは 世俗国家から独立して 

   イスラム国家を目指す 独立運動も起きていた

イスラム教では 血縁関係よりも 信仰によって結びついた共同体(ウンマ)が重視され

 イスラム教徒たちは 断食など 五行を通じて 一体感を強めてきた

こうした一体感は やがて独自の民族意識へと発展し

 民族自決の高まりとともに イスラム教徒による独立運動が 激化していった

さらに イスラム教は 政治を含む あらゆる人間活動を規定する宗教であり

 政教一致を理想とする面がある

  こうしたことも 独立派が世俗国家を離れ イスラム国家樹立を目指す一因と考えられる

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1947年 インド・パキスタン分離独立

 インド・ムスリム連盟による 1940年のラホール決議の結果

 イスラム教徒が多数を占める インド東部(現バングラデシュ)と

 北西部がパキスタンとして分離独立


1947年~ カシミール問題

 印パ分離独立に際し 藩王はヒンドゥー教徒だが 国民の大半はイスラム教徒だったため

 カシミール藩王国の帰属問題が勃発


1953年~2005年 アチェ独立運動

 アチェ自由独立運動(GAM)などによる 

 アチェ州の分離独立 および イスラム共和国樹立をめざす運動 2005年に和平成立


2002年 バリ島爆破テロ


2004年~ タイ南部の独立運動


 マレーシアと国教を接する タイ南部で 

 分離独立を主張するイスラム過激派によるテロが頻発


2005年 バリ島爆破テロ

 イスラム同胞団を意味する地下組織(ジェマ・イスラミア)による爆破テロ事件

 東南アジアにイスラム共同体をつくることをめざし 各地で活動している


※ バングラデシュ

現在のバングラディシュは パキスタンの州のひとつ(東パキスタン州)として独立した

しかし インドを挟んで 1600kmも離れた両地域は 宗教のつながりはあるものの

異なる民族同士であった また 政治・経済の主導権は西パキスタンが握っており

こうしたことに反発した東パキスタンのベンガル(バングラ)人は

1971年に独立を果たしたのである

 

2015年11月11日 (水)

イスラム教 14 東欧・中央アジア

他宗教に寛大だった オスマン帝国は 領内にさまざまな宗教信者を抱えていた

 600年にわたる支配の間に 他宗教から イスラム教に改宗する人々もおり

  複数の宗教が 混在する地域も現れた

そうした 他宗教混在地域のひとつが 現在の ボスニア・ヘルツェゴビナである

オスマン帝国の衰退期に いち早く独立を果たした バルカン半島諸国では

 セルビア人など 南スラブ人の連合国家(ユーゴスラビア)がつくられた

第二次世界大戦後には ユーゴスラビア連邦となったが 連邦内の共和国である

 ボスニア・ヘルツェゴビナでは 

  オスマン帝国時代に改宗した イスラム教徒が多数派を占めていた

彼らは 民族的にはセルビア人やクロアチア人であったが 

 宗教で結びついた 独自の民族意識を高め

  1971年には 一民族(ムスリム人)として認められた

その結果 ボスニア・ヘルツェゴビナには 

 ムスリム人(44%) セルビア人(32%) クロアチア人(18%)が

  混在する国となったのである

20世紀までは 宗教や民族の対立は表面化しなかったが

 冷戦直後の 1992年 

  ボスニア・ヘルツェゴビナでは ユーゴスラビアからの独立をめぐって

   3民族が対立する紛争が勃発

争いは 95年のデイトン和平合意によって終結したものの 

 現在も3民族の対立は続いている

一方 マルクスが「宗教は精神的なアヘン」などと唱えたことから

 共産主義のソ連では 宗教は否定的に扱われてきた

しかし 連邦内のイスラム教徒たちは 信仰を捨てることなく 

 ソ連崩壊後に誕生した中央アジア諸国家には 

  イスラム教徒が大半を占める国も多い 

   イズベキスタンなどでは 過激なイスラム復興運動もみられるようになり

    イスラム国家樹立を目指す 武装勢力のテロも起きている

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1932年 東トルキスタン独立運動
     しんきょう
 中国の新疆 ウイグル自治区などに住む トルコ系イスラム教徒による独立運動

 一部は 過激なテロ行為にも及んでいる

1991年~  中央アジアのイスラム復興運動

 ウズベキスタンなどでは ウズベキスタン・イスラム運動(IMU)や

 イスラム解放党(ヒズブアッタハリム)などが イスラム統一国家の樹立を目指して

  反政府武力闘争を繰り広げている

1992年~1995年 ボスニア紛争

 ユーゴスラビアからの独立を志向する ムスリム人らと 

 それに反対するセルビア人の対立が 紛争に発展した


1994年~ チェチェン紛争

 イスラム教スンナ派が大半を占める チェチェン共和国がロシアからの独立を目指したが

 石油パイプラインが通る要衝でもあるため ロシアが独立を認めず 紛争となった
 1999年 第二次チェチェン紛争勃発  10年後 終結


自爆テロ攻撃

 イラクの宗派間の対立などのニュースで耳にするのが「自爆テロ」

 コーランやハディースでは 自傷行為や自殺は禁じられているが

 ジハード(聖戦)で死んだものは 来世で楽園に行けるとされている

 自爆テロは レバノンのシーア派民兵組織「シズブッラー」が始めた攻撃手段だが

 その際に こうした殉教の教えが悪用され 

  以後 他の過激派組織にも 模倣されるようになったのである

ただし こうした攻撃が イスラム教で正当化されているわけではなく

 多くのイスラム法学者(ウラマー)は 非難している

2015年11月 6日 (金)

イスラム教 13 中東

「西欧世界の進出で変容した 中東地域のイスラム教」

 近代以後のイスラム世界は 欧化政策による改革や 

  イスラム復古運動を加速させていった


近代から現代にかけてのイスラム世界は いち早く近代化に成功したヨーロッパ列強の

 帝国主義支配や 二度の世界大戦 東西冷戦といった 世界情勢に翻弄されることとなる

こうした中 イスラム発祥の地である アラビア半島や その他の中東地域では

 オスマン帝国の崩壊と前後して ヨーロッパの近代化に追随する勢力も現れたが

  そうした動きに相対するように 初期のイスラムの伝統に立ち返ろうとする

   復古主義が 各地で台頭し始めた

「ワッハーブ派の運動とイラン革命」

18世紀に入り ヨーロッパ諸国に 次々と領土を奪われたオスマン帝国は

 

ヨーロッパの文化を取り入れる 欧化改革を進めた

しかし その一方で アブドゥル・ワッハーブは

「ムハンマドの時代のイスラム共同体(ウンマ)に返れ」として

 伝統への回帰を唱え アラビア半島内陸部を拠点に ワッハーブ派を起こした

彼の運動は 有力部族のサウード家に支援され 一時は アラビア半島全域を征服した

 その後も 各地のイスラム復古運動に影響を与えたほか

  1932年には サウード家による サウジアラビア建国へと結びつき 今に至る

一方 20世紀のイスラム世界に衝撃を与えたのは

 

1979年のイラン革命だ

アメリカの支援を受ける パフレビー王朝に対し シーア派の法学者(ウラマー)であった

 

ホメイニが抵抗運動を指導

  

イマーム(宗教指導者)が不在の場合は 法学者がそれに代わる という

  

「法学者の当地論」を唱え 政教一致の国家体制を目指して 王権を妥当したのである

この革命は 世俗主義をとる周辺諸国に「革命の波及」を懸念させ 

 イラン・イラク戦争の勃発に至った

1979年


 イラン革命      シーア派の法学者 ホメイニによる 王制妥当とイスラム主義革命

              以後 イランは 欧米と敵対するだけでなく 周辺イスラム諸国とも

              距離を置くことになる


1996年~2001年

 タリバン政権     アフガニスタンで台頭したイスラム主義組織

              2001年 米軍の攻撃を受けて 政権は崩壊したが

              近年ふたたび勢力を盛り返している


2003年

 イラク戦争       アメリカが大量破壊兵器保持疑惑を理由に 

               サダム・フセイン率いる バース等政権(スンナ派)を打倒

               これまで弾圧されていた シーア派が台頭 

               激しい宗派間対立が 今なお続いている

 
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タリバン

 1989年のソ連軍撤退後 アフガニスタンで起きた内戦を制して政権を掌握したのが

 「神の道を求める者たち(神学生)」を意味するタリバン勢力であった

 彼らは 隣国パキスタンのイスラム神学校で 宗教教育と軍事訓練を受けた者たちであり

 イスラム復古主義による世直しを唱え 独自の解釈によるシャリーアを厳守する政策を

 推進した

2015年9月29日 (火)

イスラム教 12 オスマン帝国 16世紀~

イスラムの 3帝国が西南アジアを支配




 ムガル帝国

  寛大な宗教政策により イスラム教とヒンドゥー教を融合させた シク教なども生まれた


 サファビー朝

  トルコ系のシーア派スーフィー(イスラム神秘主義者)教団を率いた 

   イスマーイール1世が建国 この王朝が シーア派を 国教としたことで

    イランの シーア派化が進展した


 オスマン帝国

   スルタン(君主)は バルカン半島出身の 優秀な人材を強制徴用(デヴシルメ)し

    イスラム教に改宗させて「イェニチェリ」とよばれる常備軍に編入

     イェニチェリを中心とした軍事力で 支配領域を拡大した


16~17世紀頃の 西南アジアでは 3つのイスラム帝国の治下で 今日につながる

 イスラム世界が形成されていった


1299年 小アジア北部に トルコ民族の国家 

 オスマン帝国(オスマン・トルコ帝国)が誕生した

1453年 大国となったオスマン帝国は 小アジアで勢力を伸ばし ついに

 ビザンツ帝国を攻めた

  コンスタンティノーブルは滑落し ビザンツ帝国は滅びた

 首都は イスタンブールと変えられ現在に至る

オスマン帝国の最盛期は スレイマン1世(在位1520~1566年)で

 イラク南部 北アフリカにまで領土は広がり さらに ヨーロッパに侵攻し

  ハンガリーも手に入れた

   1529年 神聖ローマ帝国の首都である ウィーンにまで攻め入り包囲した

さらに 1538年には スペインとヴェネツィアの連合艦隊を破り 地中海も手に入れる

 だが 17世紀になると 衰退しはじめる

2015年9月25日 (金)

イスラム教 11 (10世紀~13世紀)

暗殺教団!


ニザール派は ファーティマ朝の布教者 ハサン・サッバーフによって創始された

 イスマーイール派の一派である

11世紀末 ファーティマ朝の時期カリフ候補でありながら 内紛によって殺害された

 ニザールを正統のイマームとみなす宗派で 政治的対立の解決方法として

暗殺を是とした 信者に大麻を与えて 暗殺を実行させたと言われることから

 他宗派から ハッシャーシュ(麻薬常習者)とよばれ ヨーロッパには 十字軍などを介して

暗殺教団として伝えられた

 その後ヨーロッパでは ハッシャーシュから転じて 「アサッシン」とよばれるようになり

  これが英語の「暗殺者」assassin の語源となる






アッバース朝は 西暦800年前後に 最盛期を迎えるが

 その後 軍人による半独立政権が 辺境地域に乱立して衰退し

   10世紀以降は ブワイフ朝をはじめ ファーティマ朝 セルジューク朝などが成立した


10世紀

 シーア派のブワイフ朝が 946年にバグダードを占領し 
            
かいらい
  アッバース朝は傀儡政権と化した また 「後ウマイヤ朝」や ファーティマ朝の君主が

   カリフを称し 3人のカリフが並び立つ事態になった


11世紀

 10世紀頃から 中央アジア一帯にいた トルコ系遊牧民のイスラム化が進行

   1038年に成立したセルジューク朝は バグダードを攻めて ブワイフ朝を滅ぼし

     アッバース朝カリフから スルタンの称号を得た

      ※ スルタン 「権威」の意のアラビア語  トルコ系の王朝の君主が用いる


12世紀

 十字軍の侵攻が本格化  ファーティマ朝に代わって サラーフッディーン(サラディン)が

  アイユーブ朝を開いたほか ムラービト朝に代わり 

    同じく ベルベル人のムワッヒド朝が成立した



13世紀

 東方からの異教徒の侵入にさらされる 空前の世界帝国を築いた モンゴルである

  
13世紀末に成立した オスマン帝国は スルタン(君主)による専制国家を築き

 1453年には ビザンツ(東ローマ)帝国を滅ぼすなど版図を拡大

   その結果 とくに キリスト教世界に属していた バルカン半島など

    帝国の辺境地域では イスラム教徒とともに ギリシア正教徒やアルメニア教徒

     さらには イベリア半島を追われて移住した ユダヤ教徒なども存在する

      他宗派混在地域となった

 彼ら 異教徒に対し オスマン帝国は 人頭税(イズヤ)を払うことで

  信仰の自由や 自治権を与える「ニッレト制」を採用するなど 寛容な政策をとった

 一方 インドでは ムガル帝国第3代皇帝のアクバルが ヒンドゥー教徒との融和を図って

  大幅な自治を認めたのに対し 第6代アウラングゼーブは 異教徒を弾圧したため

   各地で ヒンドゥー教徒らの反乱が起きた

  また イランの サファヴィー朝は シーア派を国教と定めたため 

   イランのシーア派化が進んだ

2015年9月21日 (月)

イスラム教 10 帝国の変遷

アラブ帝国 

ムハンマドの死後 ムスリム(イスラム教徒)の間で選ばれたカリフ(最高権威者)が統治

する正統カリフ時代となる

この時代アラブ人はアラビア半島から進出し各地を征服した ササン朝ペルシアを滅亡


させ ビザンツ帝国領になっていたシリア、エジプトをも版図に加え 広範囲を支配する

アラブ帝国が誕生した アラブ帝国はアラブ人第一主義をとり異教徒や異民族ムスリム

にジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を課した 661年 第4代カリフのアリーが暗殺

され シリア総督のムアーウィヤがカリフとなり ウマイヤ朝を開いた ウマイヤ朝を支持

するスンニ派は正統カリフとウマイヤ朝以降のカリフを正統としたが アリーとその子孫を

正統なカリフとするシーア派は これを認めずウマイヤ朝に対抗する 


ウマイヤ朝

ウマイヤ朝の時代にもアラブ軍は各地を征服し8世紀初めに最盛期を迎える 東はイン

ダス川下流域まで 西は北アフリカを経てイベリア半島に進出 西ゴート王国を滅ぼし

フランク王国にも進入したが トゥール・ポワティエ間の戦いで敗れ 西ヨーロッパ全域の

征服は成らなかった


イスラム帝国

ウマイヤ朝はカリフ位をウマイヤ家を独占するなどイスラムの理念にもとる政権運営が

行われたため シーア派などが不満を強めた 750年 ムハンマドの叔父アッバースの

子孫が アラブ人第一主義に不満を持つ勢力などを糾合してウマイヤ朝を倒しアッバー

ス朝を建てたウマイヤ朝のカリフ一族はイベリア半島に逃れ後ウマイヤ朝を建てる事に

なる アッバース朝は すべてのムスリムは平等というイスラム本来の理念からアラブ人

の特権を廃止した こうしてイスラム法に則る世界帝国が誕生するのである


アッバース朝

750年 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父の子孫であるアッバースが ウマイヤ朝を

倒し アッバース朝が成立(アッバース朝革命)ウマイヤ朝時代の支配階級であったアラ

ブ人の特権を廃止し 改宗した異民族にも課せられていたジズヤ(人頭税)を異教徒のみ

とし すべてのイスラム教徒を平等に扱った ここにおいて神(アッラー)の下での平等を

説くイスラム本来の当地理念が実現し 真の意味でのイスラム帝国が成立した

8世紀末~9世紀初頭の ハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えるが 


10世紀半ばには ブワイフ朝に実権を奪われて以後は 宗教上の権威を維持するのみ

となった


分裂したイスラム世界に 東西から異教徒が侵入

アッバース朝の衰退により イスラム世界は 10世紀ごろから分裂していった

 そんなイスラム世界を襲った 未曾有の侵略が 11世紀末から13世紀にまで及んだ

  十字軍の遠征である

1096年に始まった 第1回十字軍では 10万人ともいわれる軍勢が

 エルサレム周辺を支配していた セルジューク朝やファーティマ朝を撃破し

  エルサレム王国を建国した

十字軍は 遠征の途上にある村などで 略奪と殺戮を繰り返しながら進軍したため

 もともと他宗教に寛容で キリスト教徒を「啓典の民」とよんでいたイスラム教徒は

  これ以後 キリスト教徒に対する姿勢を改めるようになる

一方 13世紀のイスラム世界には 東からも異教徒の侵入にさらされた

 空前の世界帝国を築いた モンゴルである

1221年には チンギス・ハンが 

 イランからアラル海に及ぶ地域を支配したホラズム朝を滅ぼした

チンギスの孫にあたる フラグは 1258年にバグダードを攻め アッバース朝を滅ぼし

 イル・ハン国を建国する

しかし 新たな支配者となったモンゴル人たちは 宗教に対してきわめて寛容であった

 7代ハン(国王)のガザン・ハンが イスラム教に改宗したほか モンゴル帝国のもとで

  特権商人や官僚として活躍するイスラム教徒も多かった
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また イル・ハン国は 中国の元を宗主国とする帝国の一部であったため

 東西文化の融合が進み 中央アジアのイスラム化が促されたほか

  遠く中国にも イスラム教が伝播した


十字軍の動機とルネサンス

 十字軍遠征の背景には 聖地巡礼を中心とした西欧キリスト教世界の宗教熱の

 高まりがあったとされる しかし こうした純粋な宗教心による動機以外に 多分に

 イスラム世界の富と文化に対する憧憬があったことも見逃せない

 中世以降 ヨーロッパでは古代ギリシャ・ローマ時代の優れた学芸がほとんど失われて

 おり これらの文物は 7世紀以降のイスラム世界で再発見されていた

 アッバース朝では 首都バグダードに「知恵の館」を設立して 文献のアラビア語訳を

 進めたことから イスラム世界の科学は著しく発展 十字軍を通じて こうした先進文化に

 触れた西欧では 古典古代の学芸が逆輸入され やがて西欧発展の礎となった

 ルネサンスが起きるのである


ジハード(聖戦)

本来は「神の道における努力」を意味するが 一般にはイスラム教を広めるための努力

あるいは 郷土を防衛するための戦いとされている

初期のイスラム共同体(ウンマ)による アラビア半島の征服や十字軍との戦いが

その典型とされるが 近年では イスラム主義組織によって テロを正当化する

論理として用いられることもある・・・

2015年9月17日 (木)

イスラム教 9 イスラム帝国

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632年にムハンンマドが没すると イスラム共同体(ウンマ)は動揺した

そこで ウンマはムハンマドの後継者(カリフ)として アブー・バクルを 初代カリフとした

 アブー・バクルは ウンマを束ね メディナを拠点に 周辺地域への征服活動を再開

その後 ウンマの合議などによって選ばれた4代までのカリフを 正統カリフとよぶ

この時代のウンマは ササン朝ペルシアを 滅ぼしたほか

 ビザンツ(東ローマ)帝国から シリアやエジプトを奪うなど 支配地域を拡大していった

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636年 アラブ軍はビザンツ帝国に侵攻し シリアを制圧した

640年には エジプトを奪取するなど 西に向かって勢力を伸ばしていった

一方 東にも向かい 651年には ササン朝ペルシアを滅亡させた

こうして イスラム教徒が支配する勢力は拡大し 一種の帝国となってきたため

「イスラム帝国」と よぶことがあるが 中国の秦以降の帝国やローマ帝国のように

 自分たちで そう名乗ったわけではなく 

  歴史学者や政治学者が 便宜的によんでいるのである

ムハンマドの後継者は「カリフ」という称号でよばれる

初代カリフは ムハンマドの妻 アーイシャの父

二代目は 妻ハフサの父

三代目は 娘の夫 という具合に ムハンマドに縁のある者から選ばれた

だが 四代目をめぐって 内部分裂を起こしてしまう

661年 ムハンマドのいとこで 女婿にあたる アリーが暗殺される


シーアとはアラビア語で「党派」を意味する言葉である

 シーア派は もともと「シーア・アリー(アリーの党派)」といわれ

ムハンマドのいとこであり ファーティマをめとって ムハンマドの義理の息子にもなった

 アリーと その子孫だけであると主張する一派であった

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シーア・アリーは ウマイヤ家のムアーウィヤを支持する「シーア・ムアーウィヤ」と

 対立したが その後 アリーは ムアーウィヤとの調停に臨んだ

しかし そんなアリーの融和的な態度を批判して 分派したのが 強硬姿勢を貫く

「ハワーリジュ派」(ハーリージー派)であった

ハワーリジュ派は シーア・アリー シーア・ムアーウィヤ双方を敵対視 ついには

 アリーを暗殺するのである

これにより ムアーウィヤがカリフに就任 ウマイヤ朝が成立するのである



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                                          分派図 略図
Photo_14                                          分派図 詳細

ウンマ内で大多数を占めていたのは ウンマの統一や 合意を重視し

 両党派の対立を 静観していた中立派の人たちであった

彼らは ウマイヤ朝成立によって シーア・ムアーウィヤを支持するようになり

 現在のスンナ派(スンニ派)の母体となった

  スンニとは「慣行」を意味し 宗教的なことは「預言者の慣行に従う」との考えを持つ

一方 シーア・アリーは ウマイヤ朝を認めず アリーを初代イマーム(指導者)とし

 彼の子孫が 代々イマームの権利をもつと考えるシーア派を形成

  その後 シーア派は アリーの子孫の誰をイマームとするかによって

   分派を繰り返したが 現在では シーア派の約90%を

    「十二イマーム派」が占めている

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2015年9月 9日 (水)

イスラム教 8 聖地

エルサレム

 ウマイヤ朝時代(7~8世紀)に「アル・アクサー・モスク」や「岩のドーム」が築かれた


カルバラー

 680年 シーア派第3代イマームで ムハンマドの孫にあたる フサインがウマイヤ朝軍

 に敗れ 殉死した場所

コム

 古くは ゾロアスター教の聖地 シーア派 第8代イマーム(指導者)である 

 イマーム・レザーの妹 ファーティマの廟がある


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 シーア派の分派 十二イマーム派の巡礼地 第8代イマームの墓 イマーム・レザー廟

ナジャフ

 第4代カリフで シーア派初代イマームであるアリーの廟(墓)がある


メディナ

 メッカで迫害を受けたムハンマドが 622年に移り住んだ地 メッカとともに二聖都と

  よばれ イスラム教徒以外の立ち入りは 禁止されている

メッカ

 カアバ神殿があるイスラム教最大の聖地で 

 五行のひとつである巡礼(ハッジュ)が行われる 日々の礼拝もメッカの方角を向いて

 行う イスラム教徒以外は 立ち入り禁止


    橙色の聖地は スンナ派・シーア派共通の 三大聖地

    紫色の聖地は シーア派の聖地である



第三の聖地 エルサレムは ユダヤ教・キリスト教と 共通の聖地である

 イスラム教において エルサレムが聖地とされた理由は

  天使ジブリールに連れられ エルサレムを訪れたムハンマドが ここから

   天上世界への旅に出たと伝えられているからである


エルサレムにある 岩のドームは 

 まさに ムハンマドが天に向かった場所といわれている


イラク国内の シーア派聖地では イラク戦争が勃発した 2003年以降

 自爆テロが頻発するなど 宗派対立の舞台と化している


イスラム教徒の悲願 聖地メッカへの巡礼 五行の最後に示された 聖地メッカへの巡礼

(ハッジュ)は イスラム教徒にとって

  一生に一度の念願である

世界各地から集まった信者たちは ヒジュラ暦の12月8日~10日にかけて

 ムハンマドが行った「別離の巡礼」の手順を 忠実に踏襲し 一斉に巡礼を行う


① 7日 メッカ入り

    巡礼月の7日までにメッカに入り 「イフラーム」という継ぎ目の無い白布を

    身につける

② 8日 タワーフ

    聖なるモスク(アル・ハラーム)内にある カアバ神殿を 反時計回りに7周する

③ 8日 サーイ

    聖なるモスクに隣接するサファーとマルワの間を 駆け足で7回 行き来(3往復半)

    する

④ 9日 ウクーフ

    9日正午までに ミナー、 ムズダリファを通り アラファートに移動

    ラフマ山で「ラッバイカ」(われ御前にあり)と叫ぶ

⑤ 9日 移動

    日没後 ムズダリファに移動し一泊する その途中で小石を拾っておく

⑥ 10日 石投げの儀式

    ミナーに移動 悪魔を象徴する ジャムラという塔に 小石を投げつける

⑦ 10日 犠牲を捧げる

    犠牲祭(イード・アルアドハー)のための犠牲となる動物を捧げ「イフラーム」を解く

    ハッジュはここで終了

⑧ 13日 別れのタワーフ

    犠牲祭の続く3日間は メッカにとどまり 各地の信者と交歓 
    その後「別れのタワーフ」を行い メッカを離れる


ハッジュの行われるメッカが イスラム教最大の聖地とされる理由は

この地が ムハンマドの生誕地であるとともに 神(アッラー)が最初に創造した町だと

されているためである 伝説によると 天国を追放されたアダムの降り立った場所が

メッカであり また カアバ神殿は「旧約聖書」に登場する アブラハムと その息子

イシュマエルが建立したものだとされている


交通機関の発達した現在では 遠隔地からも信者たちが訪れるようになっている

巡礼日には 200万人以上の信者が メッカに殺到し 一斉に巡礼の儀式を行うため

たとえば「石投げの儀式」では 後方からの石にあたって 毎年多数の死傷者が出ている


・・・笑っちゃ いかんよな・・・

2015年9月 5日 (土)

イスラム教 7 ヒジュラ暦に基づく宗教行事と通過儀礼

イスラム教では 古くから「ヒジュラ暦(イスラム暦)」が 用いられてきた

ヒジュラ暦とは ムハンマドがメディナに移住した 

西暦622年を紀元元年とする 太陰暦である

月の運行にのみ従う 純粋な太陰暦であるため

1ヶ月は 29日~30日で 1年は 354日 あるいは355日となる

太陽暦より 10日~12日短く 季節は 毎年ずれていく

また 1週間が7日であるのは西暦と同じだが 1日の始まりは日没から数えられる


今日では 日常生活においては 西暦が使われるが

宗教行事には伝統的なヒジュラ暦が用いられている


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1日の礼拝


 ファジュル(2ラクア) 夜明け前(日の出の約1時間前)の礼拝

 ズフル(4ラクア)   昼(正午少し過ぎの)の礼拝

 アスル(4ラクア)   午後(日没の約2時間半前)の礼拝

 マグリブ(3ラクア)  日没後(日没5分後)の礼拝

 イシャー(4ラクア)  夜(日没の約1時間半後)の礼拝


ラマダーン月の断食

 五行の4番目に挙げられる断食は ヒジュラ暦のラマダーン月に行われる

 この1ヶ月間 イスラム教徒の成人男女は 日の出から日没までの間

 飲食はもちろん 喫煙や性交 つばを飲むことまで 禁止されている

 断食は 享楽などの欲求を断つための修行として行われるが

 ヒジュラ暦は季節が少しずつずれ 約33年で一巡するため 

 真夏がラマダーン月になることもある 真夏の断食は非常な苦しみだが

 こうした苦しみを 共有することで イスラム教徒の一体感を高める効果があるとされる



イスラム教徒の通過儀礼

誕生     生後7日目に「命名式」を行うとともに 子どもの右耳に向かって

        信仰告白の文言である「アッラー以外に神はない ムハンマドはアッラーの

        使途である」と唱える

割礼     男児の場合は 生後7日目から12歳ころまでに行われえる 7歳ごろが

        適齢とされる 女子割礼は 近年では殆ど行われなくなっている

    
割礼は子どもの成長を願う祝い事として行われる伝統行事であり 盛大な祝宴が

    催される


成人     何歳で成人といった規定は無く 男女とも身体機能が発達すれば大人と

        みなされる 「礼拝が正しく行える」「断食に耐えられる」などが基準になる

        こともある

結婚     女性の結婚適齢期は「初潮後なるべく早く」とされ 10代で結婚することが

        多い 男性も結婚をしなければ 一人前と認められないが 近年は婚姻契約

        の際に必要な婚資(結納金)が 高騰しており 晩婚化が進んでいる


 イスラム教徒の男性は 啓典の民(イスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒)の女性と

    結婚できるが それ以外の宗教の女性とは結婚できない 一方 イスラム教徒の女性

    は イスラム教徒の男性としか結婚できないため 結婚するためには その男性は

    イスラム教に改宗しなければならない


死       死は来世への通過点とされ 質素に行われる また 危篤になった時点で

        病人の顔をメッカの方角に向け 周囲の人たちは信仰の告白を唱える

2015年8月31日 (月)

イスラム教 6 五行

神を信じさえすれば救われる キリスト教とは異なり

イスラム教では 正しい信仰は 具体的な行為によって 裏付けられなければならない

そして その具体的な行為として 義務付けられている

5つの宗教儀礼が 五行(五柱)である


① 信仰告白(シャハーダ)

 異教徒がイスラム教に改宗する際には 

  この信仰告白の言葉を 二人以上のイスラム教徒(成人男性)の前で 

   アラビア語で唱える

 毎回の礼拝でも 唱える


 ラー・ イラーハ・ イッラーラーハ。

 ワ・ ムハンマド・ ラスールッ・ ラーヒ

(アッラー以外に 神はない。 ムハンマドは 神の使徒である)



② 礼拝(サラート)

 1日5回の礼拝時間は 日の出や日没が基準となっており

  地域や季節によっても異なる

   イスラム教国の新聞には 毎日の礼拝時間が 記されていることが多い

 キブラ 

  礼拝(サラート)は メッカの方角を向いて行われる この礼拝の方角を キブラというが

  キブラがメッカに定められたのは 624年のことで それ以前のキブラは エルサレムで

  あった これは ムハンマドが先駆宗教である ユダヤ教に敬意を表したためとされるが

  ユダヤ教徒が ムハンマドを 偽預言者と非難したことなどで 対立したため 以後

  キブラは メッカに変更された


1・ メッカの方角を向いて立ち 「昼の礼拝を4ラクア行います」など 礼拝の意図を表す

2・ 両手を耳まで上げて「神は偉大なり」と 唱えた後 両手を体の前で組み 

   コーラン第1章と 任意の節を唱える

3・ 両手をひざに置いて腰を曲げ 「偉大なる我が主に 栄光あれ」と 3回唱える

4・ 平伏して 
「崇高なる我が主に 栄光あれ」と 3回唱える

5・ 体を起こして正座し 「神は偉大なり」と 唱えた後 再び平伏して 

   「至高なる我が主に  栄光あれ」と 3回唱える

6・ 「神は偉大なり」と 唱える その後 立ち上がり 次のラクアを始める

7・ 決められたラクアを終えたら 「神は偉大なり」と唱えて正座し 

   右手の人差し指を伸ばして 信仰告白を唱える

8・ 顔を右に向けて 「あなたがたの上に平安あれ」と唱え 次に顔を左に向けて

   同様に唱える

 2~6が1回のラクア(一連の動作)と数えられ 

 各時間の礼拝ごとに定められた数のラクアを行う


③ 喜捨(ザカート)

 自主的な喜捨である 「サダカ」とは区別される 

 貧しい者や 新しく改宗した者への支援を目的とする 義務としての施しである

 1年間所有した財産に対して 一定の税率が決められているが

 現在では 信者が自由に額を決めることも多い


④ 断食(サウム)

 ヒジュラ暦の第9月(ラマダーン月)に行われ 日の出から日没まで飲食などが禁じられる

 こどもや妊産婦 病人 老人 旅行者 戦場の兵士などは免除される


⑤ 巡礼(ハッジュ)

 ヒジュラ暦の第12月(ズール・ヒッジャ月)の8日から10日までの間に行われる

 メッカへの巡礼

 それ以外の巡礼は ウムラ(小巡礼)という

 五行な中では唯一 「そこに旅することが可能な者は」3章97節 という付帯条件がつく

 メッカに赴く財力や体力のある者に課せられた義務とされている




 
「サウジアラビア国旗の意味」の画像検索結果 サウジアラビアの国旗

中央に 信仰告白の文言が記されている

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