カテゴリー「世界史」の9件の投稿

2015年9月26日 (土)

歴史 10 前漢

秦の始皇帝によって擁立された郡県制は 項羽によって いったんは 封建制に戻された

 その後を継いだ 劉邦は その 折衷案ともいえる 郡国制を導入した

   42あった群のうち 15を漢帝国の直轄地とし

    皇帝直属の中央から派遣された役人が統治した

その他の郡には 周時代の封建制のように 軍功のあった者や 一族が王や諸侯として

 封じられ かなりの独立性をもった

  つまり 一つの帝国に 二つの制度が生じたのである

血筋が正しいわけでもなく 項羽のような天才的な軍人でもなかった劉邦は

 皇帝になってから 不安に襲われた

面倒見が良く 人に慕われた劉邦は 別人になる

 側近や親しい仲間だった将たちを 次々と粛清し始めたのである
                  げいふ
前196年 諸侯の一人 黥布は 粛清されそうになったのを察すると

 先手を打って 叛乱を起こした

  劉邦は 自ら兵を率いて これを鎮圧するが

   その戦いで受けた傷がもとで 翌年 前195年6月1日 没するのである
        ごそしちこく
前154年 呉楚七国の乱が起きるが 平定され 諸侯の力は衰えていく

 武帝の時代に 郡県制が復活し 

  これにより 皇帝に権力が集中する中央集権国家が成立した

秦代から漢代にかけて確立した 皇帝を頂点とする政治・社会制度は

 その後 2000年以上にわたり 中国を統治する支配システムとなったのである

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・しばせん
歴史書の規範とされる「史記」は 武帝の怒りによって去勢された 司馬遷の筆による

中国上古から 武帝期までの通史で 本紀(年代記)と列伝(伝記)とで構成される紀伝体の
                    
はんこ
形式をとっている また 後漢の班固も前漢一代を記録する「漢書」を紀伝体で著した

「漢書」は 倭(日本)を記載する最初の文献である

2015年9月16日 (水)

歴史 9 項羽と劉邦(2)

前203年 膠着した状況を どうにかしようと

 項羽と 劉邦の間で 天下を東西に二分し

  東を楚 西を漢にすることで 合意が成立した

両軍は それぞれの拠点に帰還することになったが

 劉邦軍は 停戦合意を裏切り 背後から 追撃したのである

           がいか
前202年 亥下の戦い で 項羽は漢軍に囲まれる

 その夜 楚の歌を歌う声が 項羽を包囲した 

  そこから 「四面楚歌」という 言葉が生まれる

敗北を悟った項羽は 最後の酒演を開くと 800騎余りの部下とともに

 闇にまぎれて 漢の包囲を突破した
       うこう
  しかし 烏江に到達すると ここまでと覚悟し 

   その地で 追撃してきた 漢軍に立ち向かい その先頭のさなか 自らその首をはねた

項羽の首は 最大の手柄である

 武功を焦る 漢軍らが こぞって 項羽の体を奪い合う 

  それは 互いに殺し合いをするほどであった 

哀れ 項羽は 体を切り刻まれ 見るも無残な屍となった

 戦争は狂気しか生まないのである

こうして 劉邦は皇帝に即位し 漢帝国が建国された


「皇帝ってのは オレみたいな イイ加減な人間がなるもんじゃない

 もっと 立派な人間がなるものさ」

  と言ったという しかし 家臣らが

「でも 将軍たちは皆 国を与えられて 王に出世している

 あなたが皇帝にならないなら 彼らだけ王になっても意味が無い

  あなたが皇帝家業をやっていく自信が無いなら 我々が命を掛けて守りますから」

と 言ったので しぶしぶ従ったという

 この話しは 農夫出身の彼の 純朴な人柄をよく表している

必死に項羽と戦って勝ったのはいいが いざ 皇帝の位を前にすると

 なにか堅苦しくて 荷が重いというのが 本当のところだったのだろう

劉邦(高祖)は 気の荒い男で

 「史記」には 十何回も 彼が人を罵る場面が出てくる

  自分の感情をむき出しにして ワーっと言って あとは 何もなかったように

   ケロッとしているところが どこか 憎めないタイプだったようだ

ある日 家臣らと酒を飲んでいるとき 高祖(劉邦)が言った

「キミたち 遠慮はいらないから 本当のことを言ってくれ

 オレが天下を取れて 項羽が取れなかったのは 一体なぜだろう」

なにしろ 無礼講だから 家臣たちも遠慮会釈ない

「あなたは 国を攻め落とすと すぐそれを人にやってしまう

 だが 項羽は 自分より賢い人には嫉妬するし 戦に勝った者を大事にしないし

  土地を得ても人にやらない これが 天下を取れなかった原因でしょうな」

高祖は ワハハと高笑いし
                                  ちょうりょう
「分かってないな キミは オレは謀略をめぐらすのは 張良には及ばず
            しょうか                                               かんしん
 国を治めるのは 蕭何には及ばず 100万の兵を動かして戦うのは 韓信に及ばない

  だが この3人をうまく使いこなした 
           はんぞう 
項羽はせっかく 范増がいたのに使いこなせなかった

 これが オレがあいつに勝てた原因さ」

 と 答えたという

つまり 高祖は人を使う天才だった 強欲な男たちに ケチらず領地を振る舞い

 持って生まれた才を十二分に発揮したくて ウズウズしている男たちに

  その機会を与えてやったのである

と 良いことばかりではないのである

 若いころの高祖(劉邦)は 酒色に溺れる ただの小役人

   ヤクザのような生活を送っていたのである
                           りょち
貧乏で 荒くれた生活を送っていた 彼に 呂雉が嫁として嫁いでくる
     りょたいこう
 後の 呂大后である

  彼女の 所業は 因は高祖にあったとしても 文字に起こすのも おぞましく

   ここでは 省かせていただく

 
  

2015年9月 8日 (火)

歴史 7 秦の始皇帝 

         

///////////////////せい
秦王となった 政は 王家の子ではあるが その出生には疑問がもたれている

 いずれにしろ 直系ではなかったので 本来なら 王になるはずがなかった

即位した時は まだ少年だったので 
                    りょふい
 母の愛人とされる 大商人の呂不韋(始皇帝の実父との噂がある)が
  しょうこく
  相国というポストにつき 実権を握った

前235年 成長した 政は 呂不韋を失脚させ 名実ともに 秦の王となる

秦の全権を掌握した政の前には 弱体化したとはいえ 6つの大国が 敵として存在した

前230年 隣国の 韓が滅びた
      ちょう
 ついで 趙に侵攻し 

前228年に 滅ぼす
         えん
前226年に 燕に侵攻し 都を陥落
         
前225年に 魏と戦い 魏王が降伏
      せい           そ
 残るは 斉 と 楚 である

前223年 楚が滅びる

 都は陥落したものの 完全には滅んでいなかった 燕が 

前222年に 滅ぼされる そして

前221年に 東の大国 斉も滅んだのである

 この間 わずか10年 怒涛のような侵攻であった

天下を統一した 秦王 政が最初に決めたことは 自らの称号であった

 戦国時代 本来なら ひとりしかいないはずの「王」が 何人も存在した

   いわば 王と王の争いが 戦国時代であった

それに勝利した 政は これまでの王とは異なる次元に立ったので
       さんこうごてい
 伝説の 三皇五帝に因み 「皇帝」と自ら名乗った(皇帝の由来については諸説ある)

存命中は皇帝 死後は 初代の皇帝と言うことで 始皇帝

 その次の 皇帝は 二世皇帝 そのまた次は 三世皇帝と 未来永劫続くようにした

だが 二代にして 秦は滅ぼされ 皇帝の名前を 数で区別するのは

 秦が最初で最後となる

秦が 征服した領土は 現在の 中華人民共和国の領土と 等しい範囲であった

 最大の課題は 広大な領土を いかに統治するかだった

始皇帝は 中国全土を すべて 皇帝の領土とし
                               しゅ
 全国を36の群(後に48になる)に分け 各群に「守」を長官として派遣し
                じょう                     い                  かん
  その下に 副官として「丞」 軍の指揮官として「尉」 監察官として「監」などの

   役人を置いた その地位は 世襲ではなかった

さらに 天下統一とともに 各地方で ばらばらだった 

 度量衡 通貨 文字も統一された

                     

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・きょうど
中国の北 今のモンゴル高原に 匈奴と呼ばれる 遊牧民族がいた

 この匈奴は 昔からたびたび 攻め込んできた その備えとして建設されたのが長城で

始皇帝は 以前からあった長城を伸張してつなげ 4000Kmにわたるものとした

 「天高く 馬肥ゆる秋」 この故事の 本当の意味を 皆さん知っているだろうか?

                 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふんしょこうじゅ
始皇帝の悪政の代表に 「焚書坑儒」がある

殷や周の時代の 封建制度を賛美していた 儒家の教えを弾圧するため

 儒家の書いた本を焼き 学者を穴埋めにした

世界史上 焚書をしたとして有名なのは 

 始皇帝と ローマ皇帝ネロ そしてヒトラーの3人である

前210年 始皇帝は 旅の途中で発病し そのまま50年の人生を終える


2015年9月 4日 (金)

歴史 6 戦国時代(2) 

中国の戦国時代半ば 強大な国が登場
                      しん
 もとは 辺境の地の小国だった 秦が 政治改革・行政改革に成功し 急成長

            

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・しょうじょうおう
前307年 秦にて 昭襄王が 即位

 この時点で 中国全土を支配する可能性があった 7大国の中でも

     しん      そ       せい
  西の秦 南の楚 東の斉の 3大国に絞られていた

その時々に応じ 楚と斉が同盟して 秦と対峙したり

 秦と楚が同盟し 斉と戦っていたが

  最初に 落ちたのは 楚であった

前299年 秦は 楚に侵攻し 8つの城を占領するなど圧勝した
                                      びんおう
前288年 中国を東西に 二分し 秦の昭襄王を 西帝 斉の湣王を東帝と称し

 平和協定が結ばれた これにより 斉が強くなったことで

  秦以外の6国間の 力関係にも変化が生じる
           えん
北東に位置する 燕で 政変が起きると 斉は 侵攻し 更に勢いをつけて

 南の宋を 滅ぼした

燕は 斉を憎み 同様に 斉が強くなるのを 快く思わない 趙・韓・魏 そして 秦との

 五ヵ国連合を組んだ 連合軍と 斉との戦いで 斉は勢いを失い 結果 秦は最も強くなる

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///////////////ちょうへい
前260年 長平の戦い  秦は 趙を大敗させ 兵士40万人を生き埋めにしたとされる

前256年 東周を 完全に滅ぼす

前251年 昭襄王 没  このころには 中国全土をほぼ 手中に入れたのである

 つづく 二代目の王は 短命で 
       せい
前247年 政 が即位 このとき13歳   後の 始皇帝である



 

2015年9月 2日 (水)

歴史 5 戦国時代(1) 

中国の春秋時代 諸侯の上に立つ 周王朝の権力と権威が 名目だけのものとなり

 各国のトップ(国君)の中で 強い者が覇者となる時代が続く

  その間 何人もの覇者が交代したが いずれも 代々世襲で継承されていた

しかし 各国の公や王までも 名目だけの君主となり
         きょう
 臣下であった卿が 政治の実権を握るようになる

晋では 十数家あった 卿のなかで

 

・・かん ぎ  ちょう はん ちゅうこう  ち
 韓・魏・趙・范・中行・智の六氏が とりわけ強くなり 「晋の六卿」と呼ばれた

その 六つの一族間で 血を血で洗う内戦が繰り広げられ

 前453年 晋の六卿は 韓 ・ 魏 ・ 趙 の三卿となる

 前438年 晋の国君 哀公が没した

 前403年 名実ともに 晋が無くなる 周の 威烈王が 韓・魏・趙の三氏を それぞれ

                         諸侯に封じたのである

  この時をもって 春秋時代が終わり 戦国時代になるというのが 一般的な学説である

こうして 戦国時代がはじまり

 前221年 秦による中国統一までを こう呼ぶ(どこで区分するかについては諸説あり)

                   しちゆう
諸侯間の争いの結果 戦国の七雄とよばれる 7大国が分立し

 それぞれ 富国強兵策をとった

この時代には

 鉄製農具や 牛耕の登場により 農業生産力が向上し 

  それに伴って青銅貨が鋳造されるなど 商工業も発達した
          かんがい
諸侯は 治水や灌漑 未開地の開墾 新都市の建設を進めた
            ゆう
 諸国は 支配地の邑を 県という 行政単位に置き換え 領内支配を強めた

また 戦乱の世では 支配体制を強固にするための 人材と思想が求められ
 しょしひゃっか
 諸子百家と称される 思想家達が活躍した

春秋・戦国時代に 各地で活躍した 思想家たちを総称して 諸子百家という

この時代は 中国の社会・経済ともに 大きな変動期で それまでの封建制の崩壊により

 新しい思想を 生むことになった

じゅか
儒家
                       こうてい
 孔子を祖とする学派 家族に対する孝悌を重んじ 

  それを 他に及ぼす 仁を最高の道徳とする
          もうし  じゅんし   
   孔子の後 孟子 荀子を輩出 前漢時代には 官学となった
                        
 【孔子】 前551年ごろ~前479年 魯に生まれ 周を理想として政治家を志すが叶わず

       諸国政浪ののち 弟子の育成に専念 

ほうか
法家 

 法に基づく 厳格な政治を行い 権力を君主に集中させ 富国強兵を図ることを説く学派
  しょうおう かんぴ
  商鞅 韓非らに 代表される

 【韓非】 ?~前233年 法家の思想を大成した 
                         り   し
       秦で重用されることを 妬む李斯に謀られ自殺

ぼっか
墨家
 ぼくし
 墨子を祖とする学派 手工業従事者や農民を中心とし 

  博愛主義の兼愛 絶対平和の非攻を唱え 儒家と並ぶ勢力となった

 【墨子】 前480年ごろ~前390年ごろ 宋の工人の出身とされるが 詳しい経歴は不明

どうか
道家

 万物は「道」に従ってあるがままとし ただ道にのみ従って生きる 無為自然の立場に

  身を置くことを説いた
  ろうし
 【老子】 道家の祖とされるが 実在を疑問視する説もある
  そうし
 【荘子】 前4世紀ごろの思想家 物の是非や善悪を越え あるがままに生きることを説いた



周王朝が衰え 有力諸侯が 覇者を目指す春秋時代を経て

 「戦国の七雄」の時代へ移るのである

2015年8月30日 (日)

歴史 4 春秋時代 

     ゆう                                  せん
周の幽王(前781~771年)は その前の 宣王が名君として知られるのに対し

西周王朝を滅ぼした 張本人として知られている 

 特に彼が 非難されているのは
     ほうじ                                                                      しんごう  たいし   ぎきゅう
愛人の褒娰を寵愛するあまり 皇后の申候一族出身の正妻 申后と太子の宣臼を廃して 

 褒娰の子を世継ぎに立てたことである

褒娰は 絹布300反と 一死刑囚の身代わりとして 義母から 幽王に売り渡された女で

 そのせいか 幽王のもとに来ても 一度も笑ったことがなかった
                                            きさき
幽王は すっかり 彼女の虜になり 皇后と太子を追い出すと 彼女を后にし

 彼女の産んだ子を 世継ぎにしてしまう

そして 国中の道化師を集めたり 滑稽な芝居を演じさせたり

 何とか 笑わせようとしたが その顔を ほころばすことさえ できなかった

とうとう 幽王は 

 彼女を笑わせることができた者には 金塊1000個を与えようとお触れをだした

これに 応募してきた 宮廷大臣 クオ・シ・フの提案で

 別に戦いも無いのに 狼煙をあげ 各地の諸侯を招集した

  諸侯は万事くりあわせて駆けつけたのち 嘘と知る
                        ほうじ
拍子抜けした顔をする諸侯らを見て 褒娰ははじめて かすかに唇の端をゆがめた

これに味をしめた幽王は その後も 褒娰を笑わせようと たびたび狼煙をあげたので

 しまいには 誰もこれを信用しなくなってしまった

その後 幽王は 国民の人気も失う
                              しんこう         けんじゅう
紀元前771年 彼に追われた 前王妃の父 申候が 西北の犬戎をそそのかして

 幽王を攻めさせた

  慌てふためいて 狼煙をあげるも また今度も嘘だろうと 誰も応じず

幽王は 犬戎の手にかかって殺され

 褒娰も敵陣に囲まれ 哀れ 自ら命を絶つのである

こうして 周王朝は いったん 滅亡

 そして 時代は 春秋時代に入るのである
             ぎきゅう
ところが 幽王の子 宣臼が 申候によって かくまわれ生きていた

 諸侯は 申候のもとに参集し 宣臼を新たに 王位に就けることで合意
       へいおう
  これが 平王である

前771年に 平王は即位し 翌 前770年に
          ほうゆう                  らくゆう
 それまで 西の豊邑にあった都を 東の洛邑に 遷都した

  異民族の侵入が主因である
                       せいしゅう        とうしゅう
   このことから 幽王までの周を 西周 以後を 東周という

周は名目上は存続することになるが もはや 実権はなかった 

 封建諸国それぞれが 力をつけていき 中国は乱世を迎える

春秋時代 東周の前期では 200あまりの諸侯があったが

 春秋の五派 という 有力諸侯に併合されていく

らくゆう                         しん   かん ぎ  ちょう
洛邑に遷都した 前770年から 晋が 韓・魏・趙の3国に分割されたのを

 周の王が認めた 前403年までを 春秋時代という
             ろこく
孔子が この時代の魯国の歴史を記した年代記のタイトルが「春秋」だからである

春秋時代の主役は

せい  かんこう      しん  ぶんこう    しん   ぼくこう      そう   じょうこう     そ    そうおう
斉の桓公 ・ 晋の文公 ・ 秦の繆公 ・ 宋の襄公 ・ 楚の荘王 である
                  ご   えつ
 だが これには諸説あり 呉や越の王を 五覇にあげる研究者もいる

2015年8月26日 (水)

歴史 3 殷周革命 

・・・・・・・・・・・・・ いん            ちゅうおう          りょしょう
紀元前11世紀 殷の最後の王 紂王の時代に 呂尚という 人物がいた

 当時 飲み屋を開いていたが いつまでも こんなことをしていては
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・しゅう   ぶんおう
  ウダツが上がらないので 何とか 評判の周の 文王に仕えたいと考えていた

ちゅう
紂は 生まれつき頭もよく 弁舌にも長け 怪力の持ち主であった

 最初はいい王だったのだが しだいに 暴君となる

池を酒で満たし 木々に肉をぶらさげ その肉の林の間に 裸の男女を走らせて

 それを 見物して楽しんだ

ここから 贅沢を極めた 酒宴のことを 「酒池肉林」と言うようになる


紂は愛人を溺愛し その言うことならば なんでも聞いてやった

 一方 庶民に対しては 重税を課したので 人心は離れ 諸侯の中にも離反者が現れる
                               
せいはく しょう
殷王朝を倒したのは 西にある 周という国の公 西伯 昌(後の文王)であったが

 打倒目前で 病死してしまう 

  その後を継いだ 息子の発(武王)が 殷を倒し 周王朝が誕生するのである

 
さて 話を戻そう
                              
いか
 呂尚は 文王が狩りに行く途中に通るという 渭河で 魚釣りをしながら

  文王を待ち伏せしようと考えた

たまたま その日

 文王は 狩りに行く前に その結果を占ったところ

「今日 とれるのは 獣なんかではなくて 天下を手に入れる手助けをしてくれる人間だ」

 という 結果が出た

興味津々の 文王一行が 渭河の岸を通りかかると 一人の男が 釣りをしていた

 どうにも 風采の上がらない老人であったが

  朝の占いを思い出し 話しかけてみると

   なかなかの 傑物だったのである

これこそ 今朝の占いに出てきた人間に違いないと

 文王は早速 宮殿につれて帰った

昔 父の太公が 

「将来 ある偉い人物が 周にやってくる その後 周の国は栄える」

 と 言っていたのを思い出し

 この釣り人の 呂尚を 「太公望」と 呼ぶことにした

  父の太公が 待ちわびていた人 という意味である

現在 釣りをする人を 太公望と呼ぶようになったのは このエピソードからである


太公望呂尚は 期待通り すぐれた機略で文王を助け

 しだいに 周の国は強大になっていく

  つぎの 武王の時代 ついに 太公望呂尚は 軍師として 殷の
紂王を 攻め落とし

周王朝を成立させたのである




殷王朝  前1600年ごろ~前1100年ごろ
 
とう       しょゆう        きっこう
 湯王が 諸邑を統合 亀甲を用いた 占いに基づく 

    神権政治を行い青銅器も製作された

↓ 殷周革命

周王朝  前1100年ごろ~前 770年ごろ

 西方の氏族が殷を滅ぼして建てる 

    血縁関係による支配を特徴とする封建制が行われた

2015年8月17日 (月)

歴史 2 古代四大文明 黄河文明 

古代四大文明は 紀元前4000年から 2300年の間に 生まれたとされる

Photo
エジプト・メソポタミア・インダス・黄河の 四大文明に共通するのは

 いずれも 大きな川の流域に発生したことです

人類発祥の地は アフリカと推定されていますが そこで生まれた人類が

 ティグリス・ユーフラテス川や ナイル川の流域に住み着き

  文明を育んでいったわけである 紀元前4000年前 つまり 6000年ほど前である


9000年前~8000年前に 農耕・牧畜が始まったらしいとのことで

 6000年前には 集落となり 精神的・物質的に 生活が豊かになったのであろう

  そこから 文明と定義されたと思われる

地球カレンダー


これから 歴史から紐解いて 中国と日本の関係を 勉強したいと思いましたので

 黄河文明の章に いたしたいと思います


中国3000年とも 4000年の歴史とも言うが 

これは歴史として語られている 王朝が出来てからの歴史
である

文明ということであれば 今から 約6000年前まで 遡ることができる

黄河流域の 肥沃な黄土地帯に 農耕文明が成立したのは 紀元前4000年頃

 その頃の 遺跡が発掘されており それによると

  竪穴式住居があり 集落が形成されており 磨製石器や彩色してある土器も使っていた

   犬や豚を飼育していたことも分かっている
                                  
ヤンシャオ (ぎょうしょう)
この中国最古の文化を 発掘された地名にちなんで 仰韶文化という

やがて 紀元前2300年頃になると 牛や馬を飼育し 磨いて黒くした土器
 
こくとう                             ロンシャン (りゅうざん)
 黒陶を使う文化が発展した これを 龍山文化という

集落は 城壁で囲まれるようになり 都市国家が成立している
              
ゆう
 小規模な共同体の 邑から 大邑(都市国家)へ発展
              しょう                                              いん
紀元前1600年ごろ 商 という大邑を中心とする連合体として 最初の王朝 殷が
               
 誕生する(伝説上の 夏を 実在とする説もある)

殷では 占いによって政治・軍事などの決定がなされ その内容は 甲骨文字で

 記録されている

                いすい                                   しゅう
前1100年ごろ 西方の渭水流域に興った氏族が 殷を滅ぼし 周王朝(西周)を建てる

 これを 殷周革命という


中国の伝説では 最初の支配者として「三皇」と呼ばれる 三人がいるが

 これは ほとんど 神話の世界である

その次に 皇帝をはじめとする「五帝の時代」となるが

 この時代についての 考古学的な確証はない

その次の 夏王朝は 17代 471年にわたり 続いたことになっているが

 これも 遺跡が発見されていない

  だが 伝えられている史料では かなり具体的に記されている

五帝の時代は 禅譲によって 天子の座が継承されていったが
 
か    う
 夏の禹は 自分の息子に世襲させた 

  これにより 中国に王朝というものが出来たのである

                   けつ
その 夏王朝17代目の王は 桀といった

 桀王は かなり暴虐非道の 王だったようである
  ばっき
  末喜という美女を寵愛し 肉欲に溺れ 彼女の言いなりになった
                                     
とう
   そんな王には 仕えることはできないと 家臣だった 湯が 桀を倒し

    新たな王朝 殷を建てた

その後 殷王朝は 湯の子が 代々の天子として30代にわたり続いた

 その間に 栄えたり 衰えたり 都を遷すなどの出来事があったようである

  この時代に いまの漢字の祖先とも言うべき 甲骨文字も存在していた

日本列島は 大昔は大陸と陸続きだった


アジア大陸にいた 古モンゴロイドという人種が 3万年ほど前に日本列島にやってきた

 今のところ 最古とされている遺跡が 1946年に発見された 岩宿の遺跡で

  日本にも 旧石器時代があったことが確認された

縄文文化とよばれるものが形成されたのは 約1万3000年前とされている

 このころ 海水面が上昇し 日本海ができ 日本列島は大陸から分離したのである


縄文人とは別に 

 1万年ほど前に 新モンゴロイドという種族が生まれ アジア各地に広がった

その中の一群が 紀元前300年頃 

 すでに 日本海ができ大陸からは離れていた日本列島に 海路 渡ってきた

  これが 弥生人とされている

縄文人と弥生人は やがて混血を繰り返し いまの日本人となる

2015年8月13日 (木)

歴史 1 文明の誕生

人類の歴史」は いつから始まったのか

古代文明が誕生してからを「歴史」ととらえるのが一般的だが

 それ以前も人類は存在した

この有史以前の時代を「先史時代」という

文字の記録など何も無いので 化石や遺跡から推測するしかない時代である

 どんな人がいて どんな事件があったのかなどは まったく分からない

この時代については 以前は遺跡を発掘し 発見された化石の出た地層から

 何万年前と推定していたが DNA研究などの進歩により 

  もっと 細かいことがわかるようになってきた

現在主流となっている学説では 人類が誕生したのは約600万年前

 これは 遺伝子額的に チンパンジーの祖先と分かれた年代です

  二足歩行の形跡のある化石は 450万年前に発見されています

700万年前には 猿人が そして 原人 旧人 新人と 進化の過程を辿るのです

ただし 分子生物学による推定は常に過少で、誤差も一定ではないのです

化石資料が不足している現状では、ヒトとチンパンジーとの分岐年代は、
500万~1500万年の間にとらえておいた方がよさそうです

場所はアフリカサバンナ それまでの 熱帯雨林だった地域が
 気候の変化により乾燥し サバンナ(草原)となった
そのため 木の上で生活していた類人猿は 地面に降りて生活しなければならなくなり
 直立できるように進化していったのである

私はこの進化という使い方は あまり好きではない
 「適応」 これが妥当だと思うからである あらゆる種は 適応できたものだけが
  生き残ってきたと考えるからである
さて こうして人類の祖先が生まれ アフリカから各地に散らばっていったと思われる

現在の人類 つまり我々 ホモ・サピエンスの直接の祖先が登場するのが約10万年前
 アフリカを起源とし ヨーロッパ・アジア・アメリカと
  各地に広がっていったとする説が有力である

約9000年前~8000年前
になると 農耕・牧畜が始まったらしい 「農業革命

※ 農業革命とは 一般的にはイギリスで起きた囲い込みによる農業上の大変革をさす

西アジアやイラク北部に その時代の遺跡が発見されている
 石器も ただ単に石を砕いただけの旧石器から 
  磨くなどの加工が施された新石器へと変化する
また 顔料で塗装されるようにもなる
「文明」がすでに 芽生えていたのである

約7000年前になると 血縁関係による「氏族」 さらに小さい「家族」というものが生まれ
「私有財産」という概念も生まれていたとされる
最古の宗教も このころには誕生していたらしい


約1万年前に氷河期が終わり 地球が現在と変わらない気候になると
やがて 人類は画期的な転換期を迎えることになる
作物の栽培や飼育に成功し それまでの狩猟・採集から 生産経済へと移行

農業生産技術が向上し 余剰生産物が増えると
 各地域間で物資の交換が行われるようになり
前4000年ごろからは そうした交易の中心地に都市が出現し始めた
 これらの都市は 城壁で囲まれ 商人や職人 神官 戦士などが暮らしていたが
やがて 富を蓄えた神官や戦士が 権力を握る支配階級となり 階級分化が進む
また 都市の中には 周辺の都市や集落を支配下におさめて 
 強大な都市国家へと成長するものもあった

各地に都市が出現し始めた頃
 農具や武器 装身具などとして 青銅器が用いられるようになったほか
  祭祀や会計事務などの必要から 文字が発達するなど
   都市生活から生み出された諸文化が複合して文明が誕生した
2020年7月
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