カテゴリー「日本史」の3件の投稿

2015年9月30日 (水)

歴史 2 倭 其の弐

4世紀の日本列島での出来事については 中国の史料もなく

朝鮮半島にある「高句麗好太王牌」が唯一の史料である

 これには 倭が 朝鮮半島に侵攻し 百済や新羅を破り従えたとある

このことから この時点で 日本列島には中欧政権が生まれ

 かなり強固なものとなっていることが分かる

国内をまとめたので 大陸に進出したのである

 その政権が 大和朝廷であるのは ほぼ間違いないのだが

  この大和朝廷が いつ成立したのか はっきりする史料はないのである

南宋と 北魏が対立していた5世紀

 再び 日本のことが中国の歴史書に載る

「倭の五王」である 421年の「讃」から478年の「武」まで 5人の代々の王が

 中国に使者を送り 朝鮮半島の百済や新羅を支配する権利を授かった

朝鮮半島では 高句麗、百済、新羅、加羅の4つの国が争っていたのである

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Ryousyo
宋の歴史書「宋書」では 倭の5人の王の名前が 中国風に表記されているため

歴代天皇の誰に該当するのかについては はっきりしない
                 いんぎょう      ゆうりゃく     あんこう
そのうちの3人については 允恭天皇 雄略天皇 安康天皇であることは

 ほぼ確実とされているが 残りの2人はよく判らないのである


日本書紀によると 天皇家は紀元前660年に即位した 神武天皇に始まるとされる
                                        すいぜい
しかし 日本書紀は神話、伝説などの伝承を多く含み 特に2代綏靖天皇から
   かいか
9代開花天皇までの天皇については 古代中国の革命思想に則って 水増しされた?

とする説もある

歴史学の上では 大和政権が 天皇家の祖先だとする説や

邪馬台国の卑弥呼を祖先とする説など 多くの説がある

中国の歴史書「宋書」倭国伝には 5世紀に存在した倭の五王についての記述があるが

天皇家の起源を これら 五王に求める意見もある




2015年9月27日 (日)

歴史 1 倭

日本のことが 中国の歴史書に登場するのは 劉邦が建てた 漢帝国の歴史書「漢書」の

「地理志」という部分である
                              
それによると 紀元前1世紀頃の日本列島は「倭」と呼ばれ 100あまりの国があったという

中国では いったん漢王国が滅び 再興されて後漢帝国の時代になるが その「後漢書」の
                        なこく
「東夷伝」によると 倭の中のひとつ 奴国が 後漢王朝に貢ぎ物をしたのが 57年で
                 いんじゅ
当時の皇帝 光武帝から 印綬を授かったとある

107年には 倭の国王が 160人の奴隷を中国に献上したとの記録がある

すでに それぞれの国には王がいて それを補佐する大臣などの貴族階級と奴隷が

いたわけで古代日本社会に階級ができていたことを示すものである

そして 140年代から180年代にかけて 倭国に大乱があったと記録されている

中国の歴史書に邪馬台国が登場するのは「三国志」の「魏志倭人伝」である

後漢王朝が滅び 動乱の時代を迎えていた中国だが 魏の勝利でとりあえず落ち着いた

2世紀後半に起きた大乱は 邪馬台国に女王卑弥呼を立てることでおさまり

30ほどの国の連合体が生まれていたようである

この邪馬台国がどこにあるかについて 主に九州説と 近畿説の2つの説があり

今も結論が出ていないのは ご存じの通りである

「魏志倭人伝」の記述が不正確なのと それらしい遺跡が発見されないので

いまだに分からない

また この邪馬台国が そのまま 後の大和朝廷になったのかどうかも

決定的な証拠がなく はっきりしないのである




魏志倭人伝とは

 「三国志」の中の「魏書」の さらに その中の第30巻「烏丸・鮮卑・東夷伝」

 に書かれている「倭人条」の呼び名である

BC107年    倭は100余国からなる
                               中国王朝に定期的に朝貢 

57年       中国から見た 倭は「奴国」 
           福岡市周辺である

107年      倭王・帥升が中国の後漢に朝貢
                               ※57年に後漢に朝貢した奴国のこと。
           すいしょう
107年      帥升の流れをくむ奴国で男の王が
~180年頃   70~80年間、倭を支配する。

~189年    大乱をおさめるため 卑弥呼を女王に立てる
               こうそんえん                たいほうぐん らくろうぐん          えんおう
238年      遼東の公孫淵が謀反を起こし、帯方郡と楽浪郡を占領し、燕王を称する。
                               ※倭と中国を結ぶルートが遮断され、倭が朝貢が中断。

238年6月   倭の女王・卑弥呼が帯方郡に使者を送り、
           魏の皇帝に謁見することを願い出る
                  しばい
238年8月   魏の将軍・司馬懿が帯方郡と楽浪郡を奪還し、公孫淵一族を滅ぼす。
                               ※倭と中国を結ぶルートが回復
                                 しんぎわおう
238年12月  魏の皇帝が、倭の女王・卑弥呼を「親魏倭王」と認める

247年      帯方郡の太守が魏の王都(洛陽)におもむき、
           倭の女王・卑弥呼と狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼(ひみここ)
           が攻防している様を説明する。
                               ※狗奴国は邪馬台国の南方にあった宿敵

240年~     卑弥呼が死ぬ。
                      その後、男の王が立つが、国中が服従せず、内乱状態に陥り、
           1000人余りが殺される
                      卑弥呼の宗女「壹與(とよ)」が13歳で女王になり、国の混乱は
~249年     収まる

300年                          奈良盆地に大規模な前方後円墳が
                               出現する

351年       邪馬台国を継承した邪馬台国王統が
            中国に朝貢する

396年       倭の五王の初代、讃(さん)が朝貢する

400年                          畿内で前方後円墳がさかんに造られる 

443年       倭の五王の3代、済(せい)が朝貢する

450年                          日本各地で前方後円墳が造られる

462年       倭の五王の4代、興(こう)済が朝貢する

479年       倭の五王の5代、武(ぶ)が中国の梁の
~482年      武帝から、征東大将軍に叙せられる

592年                           飛鳥時代が始まる(崇峻天皇)。
                                           日本で前方後円墳が造られなくなる
                                (大和朝廷が日本の大半を支配?)。
                                国号が「日本」に変わる

600年       倭王・阿毎が朝貢する 
           (あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)は、
            古代の日本の皇室の姓である

631年       倭国が唐の太宗に朝貢する。
                      ※倭国は昔の奴国と記述あり 

648年       倭国が新羅(朝鮮王朝)に遣使

650年頃      邪馬台国王とが大和朝廷に      中国の書に「日本国」がはじめて登場。
                           征服される                            「日本は昔、小国だったが倭国を併合                                                                             し、日本と改名した」とある

650年以降            大和朝廷が日本の統一王権を確立する                          

※ 一部仮説もありますので ご注意ください

2015年9月15日 (火)

歴史 8 項羽と劉邦(1)

始皇帝時代からの 大規模工事は 戦争以上に人民に苦役を強いた

 人々の不満は充満し 前210年の 始皇帝の死によって それが 噴出

前207年 各地で 叛乱が起きるようになった
                        こうう     りゅうほう
 その中で 頭角を現してきたのが 項羽 と 劉邦 である

項羽は 楚の国の将軍の家の出身であったが

 彼が物心ついた頃 すでに 楚は滅亡していた

前209年 各地で 秦の圧政に耐えかねた人々が 叛乱軍として決起

 秦に滅ぼされた かつての 6強国では それぞれの王が立ち上がる
                   こうりょう
  かつての 楚の将軍家の 項梁 と共に蜂起したのが その甥の項羽であり

   農民出身の 劉邦であった

項羽軍は強く 連戦連勝で その戦い方は 激烈で 殺戮につぐ殺戮であった

一方の 劉邦は なるべく戦闘をせずに 肉弾戦より 調略を重視し 各地を制していった

だが 先に 秦の都にて 秦王を討ったのは 項羽であった

 最高権力者を倒した者が 次の権力者である

  項羽が すべての実権を握ったのである

項羽の統治は 秦王朝の封建制度を真似したものであった

 秦との戦いで 論功のあった将軍たちや 

  旧6国の旧王族たち18人を全国各地に封じて 王にした

 項羽の論功行賞に原則が無く公平でもなかった

  そのため 不満が鬱積

項羽に不満を抱く者は 漢に封じられた 劉邦のもとに参集した

 こうして 項羽と 劉邦の 死闘が始まったのである

         ほう
   ※ 封じる~ 領地を与えて そこの支配者に取り立てる 


項羽は もはや天下は自分のものだと錯覚し
                             かいおう
前205年 彼の権威の拠り所であった 楚の 壊王を 殺してしまう 

 これによって 劉邦には 項羽討伐の 大義名分ができるのである

挙兵した 劉邦 率いる 項羽討伐軍であったが

 56万もの兵を有しながら 3万の 項羽軍に負けてしまう

その後も 楚と 漢の間で激戦が各地で展開される

 この間 項羽のもとからは 有能な臣下が離反し 劉邦軍に寝返るなど

  項羽の人徳の無さによる 陣営のほころびが目立ってきた

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