日本のことが 中国の歴史書に登場するのは 劉邦が建てた 漢帝国の歴史書「漢書」の
「地理志」という部分である
わ
それによると 紀元前1世紀頃の日本列島は「倭」と呼ばれ 100あまりの国があったという
中国では いったん漢王国が滅び 再興されて後漢帝国の時代になるが その「後漢書」の
なこく
「東夷伝」によると 倭の中のひとつ 奴国が 後漢王朝に貢ぎ物をしたのが 57年で
いんじゅ
当時の皇帝 光武帝から 印綬を授かったとある
107年には 倭の国王が 160人の奴隷を中国に献上したとの記録がある
すでに それぞれの国には王がいて それを補佐する大臣などの貴族階級と奴隷が
いたわけで古代日本社会に階級ができていたことを示すものである
そして 140年代から180年代にかけて 倭国に大乱があったと記録されている
中国の歴史書に邪馬台国が登場するのは「三国志」の「魏志倭人伝」である
後漢王朝が滅び 動乱の時代を迎えていた中国だが 魏の勝利でとりあえず落ち着いた
2世紀後半に起きた大乱は 邪馬台国に女王卑弥呼を立てることでおさまり
30ほどの国の連合体が生まれていたようである
この邪馬台国がどこにあるかについて 主に九州説と 近畿説の2つの説があり
今も結論が出ていないのは ご存じの通りである
「魏志倭人伝」の記述が不正確なのと それらしい遺跡が発見されないので
いまだに分からない
また この邪馬台国が そのまま 後の大和朝廷になったのかどうかも
決定的な証拠がなく はっきりしないのである
魏志倭人伝とは
「三国志」の中の「魏書」の さらに その中の第30巻「烏丸・鮮卑・東夷伝」
に書かれている「倭人条」の呼び名である
BC107年 倭は100余国からなる
中国王朝に定期的に朝貢
57年 中国から見た 倭は「奴国」
福岡市周辺である
107年 倭王・帥升が中国の後漢に朝貢
※57年に後漢に朝貢した奴国のこと。
すいしょう
107年 帥升の流れをくむ奴国で男の王が
~180年頃 70~80年間、倭を支配する。
~189年 大乱をおさめるため 卑弥呼を女王に立てる
こうそんえん たいほうぐん らくろうぐん えんおう
238年 遼東の公孫淵が謀反を起こし、帯方郡と楽浪郡を占領し、燕王を称する。
※倭と中国を結ぶルートが遮断され、倭が朝貢が中断。
238年6月 倭の女王・卑弥呼が帯方郡に使者を送り、
魏の皇帝に謁見することを願い出る
しばい
238年8月 魏の将軍・司馬懿が帯方郡と楽浪郡を奪還し、公孫淵一族を滅ぼす。
※倭と中国を結ぶルートが回復
しんぎわおう
238年12月 魏の皇帝が、倭の女王・卑弥呼を「親魏倭王」と認める
247年 帯方郡の太守が魏の王都(洛陽)におもむき、
倭の女王・卑弥呼と狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼(ひみここ)
が攻防している様を説明する。
※狗奴国は邪馬台国の南方にあった宿敵
240年~ 卑弥呼が死ぬ。
その後、男の王が立つが、国中が服従せず、内乱状態に陥り、
1000人余りが殺される
卑弥呼の宗女「壹與(とよ)」が13歳で女王になり、国の混乱は
~249年 収まる
300年 奈良盆地に大規模な前方後円墳が
出現する
351年 邪馬台国を継承した邪馬台国王統が
中国に朝貢する
396年 倭の五王の初代、讃(さん)が朝貢する
400年 畿内で前方後円墳がさかんに造られる
443年 倭の五王の3代、済(せい)が朝貢する
450年 日本各地で前方後円墳が造られる
462年 倭の五王の4代、興(こう)済が朝貢する
479年 倭の五王の5代、武(ぶ)が中国の梁の
~482年 武帝から、征東大将軍に叙せられる
592年 飛鳥時代が始まる(崇峻天皇)。
日本で前方後円墳が造られなくなる
(大和朝廷が日本の大半を支配?)。
国号が「日本」に変わる
600年 倭王・阿毎が朝貢する
(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)は、
古代の日本の皇室の姓である
631年 倭国が唐の太宗に朝貢する。
※倭国は昔の奴国と記述あり
648年 倭国が新羅(朝鮮王朝)に遣使
650年頃 邪馬台国王とが大和朝廷に 中国の書に「日本国」がはじめて登場。
征服される 「日本は昔、小国だったが倭国を併合 し、日本と改名した」とある
650年以降 大和朝廷が日本の統一王権を確立する
※ 一部仮説もありますので ご注意ください
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